世界救世教について

世界救世教が岡田茂吉、明主様(光の王)によって1935年に日本で設立されました。 現在、90か国以上で発見されています。 創設者の教えを読んで、救世教についてもう少し学んでください。

 

世界救世教とは何か

 

 本教団は地上天国出現を目的とし、物質文化の進歩と相俟って宗教文化を創成普及せんとするものである。

 地上天国とは病貧争絶無の世界、まったく人類理想の世界をいうにあることは、前項に詳説した通りである。彼の釈尊が唱えた五六七の世も、キリストが予言せし「天国は近づけり」ということも、日蓮の叫ばれた義農の世も、天理教の理想とせる「一列揃って甘露台の世」も、吾らの曰う「地上天国」と同様の意味である。ただ異なるところは「時」の問題であるが、右の諸宗祖は「時」を知らせなかった。しかるにその時期が非常に近づきつつあることを、私は覚り得たのである。時が近づきつつあるということは何を意味するか、それは釈尊の唱えた仏滅であり、法滅尽であり、キリストの世の終わり、または最後の審判の時が切迫したことを想わせるのである。このままにして地上天国がくるとすれば、人類はまことに幸福であるが、新しき理想世界が建設されるというについては、その前に旧世界の精算がなくてはならないわけである。ちょうど新しき家を建てんとするには旧き家を破壊し、土地を清浄化されなくてはならない。勿論旧き家にも役立つものは相当あろうから、それは残さるるであろう。その取捨選択は神がなし給うことは勿論である。故に人間は残されるもの、すなわち新世界に役立つ者とならなければならない。それによって大いなる切替時をやすく越えらるることでいわゆる神の試験にパスするのである。その唯一の方法としての信仰であることを次に説明してみよう。

 以上説くごとく世界の大転換期を乗り越す資格とは、病貧争絶無の世界に生存なしうる人間であって文字通り病気のない健康人、貧苦から脱出した人間、和を好み争いを嫌う人間である。この三大資格を有する人間であれば神は滅し給う必要がないばかりか、来るべき新世界の有能人として遇されるわけで、神の意図と人間の理想との食い違いはないことを私は信ずるのである。しからば右の三大資格を得んとする方法ありや、本教団は右の資格者たらしむべく教導し、神の恩恵を取り次がんとするものである。

(「信仰雑話」昭和二十三年九月五日)

 

デパート教

 本教を、最も判り易く言えば、デパート教といってもいい。しかしどうも宗教には相応しくない名称だが、この言い方が一番ピッタリしていると思うから、その意味をかいてみよう。これは常に、私が唱えている事だが本教には、基督(キリスト)教、神道、仏教を初め、儒教も、哲学も、科学も、芸術も、ことごとく包含されている。その中でも特に力を入れているものに、科学の面では病気と健康、農耕法と別の意味での芸術等である。もちろん本教はその名のごとく、救世の大業を遂行せんとする目的である以上、一切万有を救わなければならない、としたら人事百般、いかなる事物にも誤りを指摘し、最高の指針を与えなければならないのはもちろんである。なるほど、現代文化の進歩も、素晴しいものではあるが、同時に欠点の多い事も素晴しいものである。ところが表面の方は衆目に見えるからいいとしても、内面の方は目に見え難いので、神の光明に照らして是正するより方法はないのである。
 この意味において、本教は既存文化のあらゆる面に向かって、メスを揮(ふる)って解剖し、その実態を明らかにし、より良き世界の実現を企図するもので、かくして天国的文化時代の到来を期待し得るのである。
 デパート宗教の意味、ザット右のごとくである。

『栄光』97号、昭和26(1951)年3月28日発行

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